「会長の目線」

最初の起業に失敗し、一度は人生を投げ出しかけて…

エム・ジェイは、いまからおよそ28年前(1995年)、私にとって2度めに起業した会社です。1度めの起業は36歳の時。20歳から35歳までサラリーマン生活を送り、「人に使われるのは性に合わないな」と、友人と一緒に、重機を海外に送り届ける会社を興しました。しかし、バブルが崩壊して親会社が倒産。あおりを受けて私達の会社も、借金を残して倒産してしまいました。

借金返済のためにカラオケ店の受付や営業の仕事をし、マイホームも借金のかたに競売にかけられ、妻や子ども達に不自由な思いをさせ、「俺は何のために生きているんだ。もうどうでもいい」と、一時期は大袈裟ではなく自暴自棄になっていました。

再起を促してくれた、若い仲間達

そんな時に「もう一度、事業に挑戦してみたらどうか」と、奮起を促してくれた2人の若い仲間がいました。妻が社交的な性格だったこともあり、当時の私達の家には、妻の元後輩(私の事業失敗前に妻がパートで働いていた製造業の工場)など、若い人たちが入れ替わり立ち代わり、遊びに来ていました。その中の2人が、「喜多さん、このままで終わっちゃだめでしょう」と、お尻を叩いてくれたのです。エム・ジェイ現社長の金井と、副社長の峰村です。

2人とも当時は20代半ば。彼ら自身に「起業したい」という野心や、「こんな事業をやりたい」というビジョンがあったわけではないはずです。安定したサラリーマン生活に、特に不満もなかっただろうと思います。ただ、腐っている私をなんとか立ち直らせたい。大黒柱が自暴自棄になっていることで苦労している私の家族を助けたい。その一念で、私と一蓮托生で未知の挑戦をする道を選んだのです。ある意味、無謀ですね(笑)

正直、迷いました。自信や勝算はありませんでした。ただ、「こんな自分を見捨てず、一緒にがんばろうと言ってくれている仲間の気持ちをむげにしたくない。自分もこのままでは終わりたくない。家族にもう一度、幸せの象徴であるマイホームを取り戻してあげたい」その想いに突き動かされ、私は39歳の時、エム・ジェイを立ち上げたのです。

28年前、自分を見捨てなかった仲間と家族のおかげで、いま

再起業の事業として清掃業を選んだのは、本当にたまたま。知人の会社が清掃業をやっており、その下請けとして仕事をいただいたことがきっかけでした。順風満帆では決してありませんでしたが、さまざまなご縁があって、清掃を軸に事業が広がり、いまに至ります。次世代を任せられる人財が育ち、近年、大規模ホテルとのお取引が始まったこともあって業績は安定し、拠点も増えてほぼ全国からの依頼に対応できる基盤が整い、今後が楽しみな会社になりました。

私自身が私の人生を投げ出しかけていた28年前のあの時、私を見捨てず、手を差し伸べてくれた仲間や家族がいなかったら、いまのエム・ジェイも、私もなかったでしょう。くどいようですが本当に、「感謝」の2文字以外に何もありません。

「社長の目線」

野心とは程遠い、お気楽サラリーマン

喜多会長(当時は「喜多さん」)との出会いは、高校を出て地元・上田の電気系製造会社に作業員として就職したばかりの18歳の時。その会社に、喜多さんの奥さん(現・当社監査役)がパートで働いていました。奥さんはとにかくとても面倒見が良くて、若い後輩たちに何かと世話を焼いたり気にかけてくれており、その後輩たちの中に私もいたのです。ご自宅に遊びに行ってご飯を食べさせてもらうことも多く、家族ぐるみの付き合いになりました。口下手で友達もあまりおらず、慣れない社会人としての生活に戸惑うことも多かった私にとって、喜多家は文字通り、心の拠り所でしたね。

出会った当初の喜多さんは、最初の起業をする前でした。実は「重機を海外輸送する会社を創るから、一緒にやらないか」と、声をかけられたのですが、その時は断ったのです。安定したサラリーマン生活を手放したくなかったので。「そこそこ安定した会社で、そこそこのお給料を得て、土日は家でのんびり過ごし、無理せず定年まで勤め上げる」そんな人生プランを描いていました。「人に使われるのは嫌だ」という思いも、「人より抜きん出てやろう」という欲も一切なし。残業はなるべくせず、有給休暇はフルで使い、使い果たしたら仮病を使ってでも休む。そんなお気楽サラリーマンでしたよ(笑)。凪のような生活に満足していたし、この先もそうやって生きていくのだと思っていました。

心の拠り所になってくれた先輩一家を助けたい一心で

しかし、起業した喜多さんの会社が倒産。借金返済のために喜多さんはまた会社勤めを始め、奥さんは会社を辞めて飲食店を開業しました。私達は連れ立ってお店に通っては盛り上げていました。もちろんそれは、少しでも喜多さんの役に立ちたいからこそ。しかし、その私達の想いは裏目に出てしまいました。お店が繁盛するにつれて、喜多さんはますます投げやりな生き方になっていったんです。収入面で奥さんのほうが大黒柱のようになったことで、肩身が狭くなったのでしょう。

そこで、奥さんと相談して決めたのです。もう一度喜多さんに起業を勧めようと。「彼はこんなところで終わる人じゃない」そう信じていましたから。あの頃、私達や奥さんの気持ちが、「周りの人間がこんなに心配しているのに、一人でいつまでも腐って、なんて人だ」と、愛想を尽かす方向に行っても不思議はなかった。でも行かなかった。そこが喜多さんの人徳でしょうね。私と、現・副社長の峰村とで話を持ち掛けた時、喜多さんには、すぐには乗り気になってもらえず、「そうか。考えておくよ」という手応えでした。でも、結果として立ち上がることを決めてくれた。やっぱり嬉しかったんだろうなと思っています。

がむしゃらな日々の中、いつしか会社は私の分身で宝物に

そこからは、がむしゃらにやってきました。将来設計なんて考えている余裕はありません。ただ日々、一生懸命やる。それだけです。最初は、私と峰村と会長と奥さん(現・当社監査役)の4人で。そこから徐々に仲間を増やして。本当に駆け抜けてきました。柄にもない営業をやり、もっと柄にもない社長職も担い、なかなか気が休まることのない毎日でしたが、会社が少しずつ大きくなり、人財が育っていく過程は楽しかったですね。

他社にいたほうがもっと厚待遇で安定した生活ができた可能性なんて、いくらでもあります。でも、よそへ行くことなんて考えたことがありません。エム・ジェイは、大袈裟ではなくて私の生き甲斐であり、私の分身なんです。昔もいまも、会社に来ることが毎日楽しい。事務所の椅子に座ると、ホッと落ち着くのです。休むことが楽しみのお気楽サラリーマンだった私が、どうしてこうなったんでしょうね?(笑)

創業メンバーの4人が、何があっても崩れない固い絆と信頼で結ばれていたからだと思います。この4人でなければ、きっとダメでした。この4人でなくても、会社を成功させることはできたかもしれません。もしかしたら、もっとスピーディに成長し、儲かっていた可能性だってあるかもしれません。でも、そういうことではないんです。この4人でなければ、こんなに「私の分身。かけがえのない宝物」だと思える会社は創れなかった。奇跡のチームだったと本当に思います。

次世代の飛躍を静かに見届ける、それが楽しみ

エム・ジェイはもう、若い世代の力で自走できる組織になりました。これからは我々創業メンバーのことは忘れて、どんどん大きくなっていっていくべきだと思います。「私達が創ってきたエム・ジェイ」に固執するつもりはありません。次期社長へ近年中にバトンを引き継ぐ準備は整っています。その時は代表権も手放します。ただ、「皆の活躍を見守らせてね」とだけ、次期社長にお願いしています。安心してその日を待てるほどに次世代が育ってきてくれたことが、本当に嬉しいです。彼らの想いと信念のもとで自由に羽ばたいていくエム・ジェイを、静かに見届けたいです。