2022年11月、ホームページ全面リニューアルにあたり、創業者2人(当時の会長・社長)が、エム・ジェイ創業ヒストリーと、自らの想いを語りました。2024年に代がわりし、2人とも勇退いたしました。しかし、彼らがエム・ジェイを創ったからこそ、いまがあるのです。当時の言葉をそのまま、記録としてここに残します。
エム・ジェイ創業ヒストリー
(2022年11月談話)
「前会長の目線(下記の話をした当時は「会長」)」
最初の起業に失敗し、一度は人生を投げ出しかけて…
エム・ジェイは、いまからおよそ28年前(1995年)、私にとって2度めに起業した会社です。1度めの起業は36歳の時。20歳から35歳までサラリーマン生活を送り、「人に使われるのは性に合わないな」と、友人と一緒に、重機を海外に送り届ける会社を興しました。しかし、バブルが崩壊して親会社が倒産。あおりを受けて私達の会社も、借金を残して倒産してしまいました。
借金返済のためにカラオケ店の受付や営業の仕事をし、マイホームも借金のかたに競売にかけられ、妻や子ども達に不自由な思いをさせ、「俺は何のために生きているんだ。もうどうでもいい」と、一時期は大袈裟ではなく自暴自棄になっていました。
再起を促してくれた、若い仲間達
そんな時に「もう一度、事業に挑戦してみたらどうか」と、奮起を促してくれた2人の若い仲間がいました。妻が社交的な性格だったこともあり、当時の私達の家には、妻の元後輩(私の事業失敗前に妻がパートで働いていた製造業の工場)など、若い人たちが入れ替わり立ち代わり、遊びに来ていました。その中の2人が、「喜多さん、このままで終わっちゃだめでしょう」と、お尻を叩いてくれたのです。エム・ジェイ現社長の金井と、副社長の峰村です。
2人とも当時は20代半ば。彼ら自身に「起業したい」という野心や、「こんな事業をやりたい」というビジョンがあったわけではないはずです。安定したサラリーマン生活に、特に不満もなかっただろうと思います。ただ、腐っている私をなんとか立ち直らせたい。大黒柱が自暴自棄になっていることで苦労している私の家族を助けたい。その一念で、私と一蓮托生で未知の挑戦をする道を選んだのです。ある意味、無謀ですね(笑)
正直、迷いました。自信や勝算はありませんでした。ただ、「こんな自分を見捨てず、一緒にがんばろうと言ってくれている仲間の気持ちをむげにしたくない。自分もこのままでは終わりたくない。家族にもう一度、幸せの象徴であるマイホームを取り戻してあげたい」その想いに突き動かされ、私は39歳の時、エム・ジェイを立ち上げたのです。
28年前、自分を見捨てなかった仲間と家族のおかげで、いま
再起業の事業として清掃業を選んだのは、本当にたまたま。知人の会社が清掃業をやっており、その下請けとして仕事をいただいたことがきっかけでした。順風満帆では決してありませんでしたが、さまざまなご縁があって、清掃を軸に事業が広がり、いまに至ります。次世代を任せられる人財が育ち、近年、大規模ホテルとのお取引が始まったこともあって業績は安定し、拠点も増えてほぼ全国からの依頼に対応できる基盤が整い、今後が楽しみな会社になりました。
私自身が私の人生を投げ出しかけていた28年前のあの時、私を見捨てず、手を差し伸べてくれた仲間や家族がいなかったら、いまのエム・ジェイも、私もなかったでしょう。くどいようですが本当に、「感謝」の2文字以外に何もありません。
「当時のごあいさつ(会長として)」
「感謝」。
今日までのエム・ジェイの歴史と私の人生を表すとしたら、この2文字しかありません。
まず、最初に興した会社がバブルのあおりを受けて倒産し、借金を背負い、マイホームも失い、自暴自棄になっていた私に、「ここで終わってはもったいない」と、再度の起業を持ちかけてくれた年若い仲間たちへ。そして、大黒柱としての役割を放棄していた私を見捨てることなく、再び立ち上がるまで見守り、支え、そして新たな挑戦へと背中を押してくれた家族へ。心から感謝しています。彼らがいなければ、エム・ジェイの存在はありませんし、私自身、どうなっていたかわかりません。創業時のことは本当に、いま思い出しても胸が熱くなります。
そして、ご縁のあったさまざまなお客様からの「ありがとう」「次もお願いします」が、常に私達にモチベーションを与えてくれ、「もっとこうしてほしい」「これでは足りないよ」が、私達を成長させてくれました。実績もノウハウもないところから始めた清掃業。はじめのうちは至らないことも多々あったと思います。そんな私達に期待を寄せ、時に温かく、時に厳しく向き合ってくださったたくさんのお客様へ。感謝の念でいっぱいです。おかげさまで、いまでは技術・ノウハウともに「プロです」と胸を張れる業者に成長できたと自負しております。
また、設備投資の返済が負担になって苦しんでいた際には、銀行の担当者の方がローンの返済プラン見直しをしてくれ、窮地を逃れることができました。こんな小さな、発展途上の会社の可能性を信じ、ともに課題を解決しようと親身になってくださって、いくら感謝してもしきれません。このように、今日までエム・ジェイは不思議なほどに、人との出会いに恵まれてきました。ご縁のあった一人ひとりに、頭が上がりません。
そして何より感謝を伝えたい相手は、楽ではない時代のほうが長がったのに、ついてきてくれた社員たちです。彼らがお客様の信頼に値する真摯な仕事をし続けてくれたからこそ、今日のエム・ジェイがあります。エム・ジェイは私の会社ではなく、皆の会社です。この先も、皆の力で、エム・ジェイを「社員のことを守れる会社、社員を幸せにできる会社」へと育ててほしいと願っています。皆のがんばりが報われる会社でなければ、存続する意味がありませんから。
そして、働く側が心身ともに充実しているからこそ生み出せる質の高いサービスを、社会に提供し続けていってほしい。当社を支えてくれる数々のご縁に対して、感謝の想いをしっかりと形にして、大きく恩返しできる会社になってほしいです。創業者が長く君臨していると次世代がやりにくいでしょうから、私は経営に口出しするつもりはありません。何かあればいつでも我が身を投げ出して助けられる位置で、次世代の活躍を楽しみに見守っていきます。皆様も、これからのエム・ジェイにどうかご期待ください。
代表取締役会長 喜多 友一
「前社長の目線(下記の話をした当時は「社長」)」
野心とは程遠い、お気楽サラリーマン
喜多会長(当時は「喜多さん」)との出会いは、高校を出て地元・上田の電気系製造会社に作業員として就職したばかりの18歳の時。その会社に、喜多さんの奥さん(現・当社監査役)がパートで働いていました。奥さんはとにかくとても面倒見が良くて、若い後輩たちに何かと世話を焼いたり気にかけてくれており、その後輩たちの中に私もいたのです。ご自宅に遊びに行ってご飯を食べさせてもらうことも多く、家族ぐるみの付き合いになりました。口下手で友達もあまりおらず、慣れない社会人としての生活に戸惑うことも多かった私にとって、喜多家は文字通り、心の拠り所でしたね。
出会った当初の喜多さんは、最初の起業をする前でした。実は「重機を海外輸送する会社を創るから、一緒にやらないか」と、声をかけられたのですが、その時は断ったのです。安定したサラリーマン生活を手放したくなかったので。「そこそこ安定した会社で、そこそこのお給料を得て、土日は家でのんびり過ごし、無理せず定年まで勤め上げる」そんな人生プランを描いていました。「人に使われるのは嫌だ」という思いも、「人より抜きん出てやろう」という欲も一切なし。残業はなるべくせず、有給休暇はフルで使い、使い果たしたら仮病を使ってでも休む。そんなお気楽サラリーマンでしたよ(笑)。凪のような生活に満足していたし、この先もそうやって生きていくのだと思っていました。
心の拠り所になってくれた先輩一家を助けたい一心で
しかし、起業した喜多さんの会社が倒産。借金返済のために喜多さんはまた会社勤めを始め、奥さんは会社を辞めて飲食店を開業しました。私達は連れ立ってお店に通っては盛り上げていました。もちろんそれは、少しでも喜多さんの役に立ちたいからこそ。しかし、その私達の想いは裏目に出てしまいました。お店が繁盛するにつれて、喜多さんはますます投げやりな生き方になっていったんです。収入面で奥さんのほうが大黒柱のようになったことで、肩身が狭くなったのでしょう。
そこで、奥さんと相談して決めたのです。もう一度喜多さんに起業を勧めようと。「彼はこんなところで終わる人じゃない」そう信じていましたから。あの頃、私達や奥さんの気持ちが、「周りの人間がこんなに心配しているのに、一人でいつまでも腐って、なんて人だ」と、愛想を尽かす方向に行っても不思議はなかった。でも行かなかった。そこが喜多さんの人徳でしょうね。私と、現・副社長の峰村とで話を持ち掛けた時、喜多さんには、すぐには乗り気になってもらえず、「そうか。考えておくよ」という手応えでした。でも、結果として立ち上がることを決めてくれた。やっぱり嬉しかったんだろうなと思っています。
がむしゃらな日々の中、いつしか会社は私の分身で宝物に
そこからは、がむしゃらにやってきました。将来設計なんて考えている余裕はありません。ただ日々、一生懸命やる。それだけです。最初は、私と峰村と会長と奥さん(現・当社監査役)の4人で。そこから徐々に仲間を増やして。本当に駆け抜けてきました。柄にもない営業をやり、もっと柄にもない社長職も担い、なかなか気が休まることのない毎日でしたが、会社が少しずつ大きくなり、人財が育っていく過程は楽しかったですね。
他社にいたほうがもっと厚待遇で安定した生活ができた可能性なんて、いくらでもあります。でも、よそへ行くことなんて考えたことがありません。エム・ジェイは、大袈裟ではなくて私の生き甲斐であり、私の分身なんです。昔もいまも、会社に来ることが毎日楽しい。事務所の椅子に座ると、ホッと落ち着くのです。休むことが楽しみのお気楽サラリーマンだった私が、どうしてこうなったんでしょうね?(笑)
創業メンバーの4人が、何があっても崩れない固い絆と信頼で結ばれていたからだと思います。この4人でなければ、きっとダメでした。この4人でなくても、会社を成功させることはできたかもしれません。もしかしたら、もっとスピーディに成長し、儲かっていた可能性だってあるかもしれません。でも、そういうことではないんです。この4人でなければ、こんなに「私の分身。かけがえのない宝物」だと思える会社は創れなかった。奇跡のチームだったと本当に思います。
次世代の飛躍を静かに見届ける、それが楽しみ
エム・ジェイはもう、若い世代の力で自走できる組織になりました。これからは我々創業メンバーのことは忘れて、どんどん大きくなっていっていくべきだと思います。「私達が創ってきたエム・ジェイ」に固執するつもりはありません。次期社長へ近年中にバトンを引き継ぐ準備は整っています。その時は代表権も手放します。ただ、「皆の活躍を見守らせてね」とだけ、次期社長にお願いしています。安心してその日を待てるほどに次世代が育ってきてくれたことが、本当に嬉しいです。彼らの想いと信念のもとで自由に羽ばたいていくエム・ジェイを、静かに見届けたいです。
「当時のごあいさつ(社長として)」
清掃技術の提供だけではない、 私達だからこその価値を。
「エム・ジェイに頼んで良かった」と、お客様に感じていただけるような会社にしよう。社員達とは常にそんなことを話しています。キャリアのある清掃業者であれば、一定のクオリティの清掃はできます。「エム・ジェイの清掃技術が日本一!」というわけではないでしょう。だからこそ、「お客様に、エム・ジェイに依頼する価値を実感していただけるポイントはどこにあるのか?」それを日々考えながら仕事に臨む必要があります。ポイントはお客様ごと、現場ごとに違いますし、同じお客様、同じ現場でも、その時その時の状況次第で変わります。日々、探求です。
私の探求は創業当初から始まっています。清掃のイロハもよくわからないまま、初めて請け負った現場は、とあるスーパー。仕事がもらえたことが嬉しくて嬉しくて、時間的コストを度外視して、創業メンバー4人で、隅から隅まで徹底的に掃除しました。オーナー様から「もういいです。十分ですよ」と、制止されたほどです(もちろん、こんなやり方は正解ではないので、いまはやっていません。時間の糸目をつけない掃除は素人の掃除ですからね。いまは「どこを重点的に清掃するのがお客様にとって最適か」を見極めて行っています)。
「こんなに一生懸命やってくださってありがとうございます。次もぜひお願いします」と言っていただけた時のうれしさは忘れません。「掃除って、お客様にこんなに喜んでもらえる仕事なんだ」と、清掃業の醍醐味と価値を気づかされた瞬間でした。「清掃業を極めていこう」決めたのはその時からです。
後発業者で、コネも何もありませんでしたが、「一生懸命やっていれば、お天道様が見てくれている」と念じ、一現場、一現場に真摯に取り組んでいくうちに、「エム・ジェイという会社に頼めば、こんなに一生懸命にやってくれる」と、徐々に評判が広がり、お客様から新たなお客様を紹介していただけるようになり、いまでは県外からも多くのご依頼をいただける会社になりました。仕事をいただけるありがたさ、必要とされる喜びをいまも日々、噛みしめています。
清掃を通して、お客様に幸せや喜びを感じていただける会社になれるように、これからも探求心を持ち続け、邁進していきます。
代表取締役社長 金井 満